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 今日は調子が急に悪くなった。本もあまり進まなかった。胸の中を寒風が始終通り抜けて心が冷え、ああ駄目だという不能の感覚が覆う。全能感の真反対に支配されて何も出来ない。

 朧気に分かっていたことだが今日ではっきりした。毎日この日誌を書くんだと昨日決めた。それだったのだ。毎日、文章を書くこと。文章を書く行為が待ち受けていること、書くという行為に私は完全に自信を喪失している。抑うつ的になってしまう。

 その一方でそういった抑うつを減ぜしめることもできるかもしれない、そんな方法にも気付いた。

 長年セロクエルを飲んでいるがこの薬は鎮静力が強く、朝晩の処方で出されていても寝る前に一気飲みするようにしていた。しかし今日は処方通りに飲んだ。飲んでからベッドに入らなかったわけで薬が効いていく気色悪さが三十分ほどあったが、滲んで慣れたところで精神がまろやかになった。セロクエル血中濃度における半減期は三から四時間程度だという。あくまで半減期だから一日二回でいいのだろう。

 これを試していれば、というか昔からの指示通りに飲んでいればこんな悩みはなかったのかもしれない。だが五年くらい前までは本当に身体の動きも緩慢になって脳みそも靄の中のように霞んではっきりしなくなるという経験を何回としていくうちに日中は飲めないと自己判断してしまっていたのだ。

 もうそろそろ飲み始めて十年が経つ。日中に飲んでもしばらくの不快感を耐えなくてはならないが、そうすれば十年分の耐性のついた今ならプラスに働くのだろう。こうなるのに十年かかったとも言えるのだが。

 

 〈死〉と〈生〉について考えていた。できあがったプロットを持つ、書こうとして書きあぐね今のところ見送っている小説の話。〈死〉の対義語は〈生〉なりしか? 〈死〉が一瞬間の物事であるとすれば、〈生〉は連続性の生命の運動だから違うのではないか? 〈死〉の対義語は〈産〉だ。生命が始まる瞬間である〈産〉、終わる瞬間である〈死〉。とすると〈生〉は換言して〈生き続ける〉ことでその対義は〈死に続ける〉ことか? ともあれ始まりと終わりは人間に限らず全ての生命体に対し完全なる平等だ。これ以外の全ては不平等だ。だからなおさら、やっぱり私は〈死〉をネガティブにとらえられないし、とらえようとする社会や世間が分からない。