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2016/03/16

 高知競馬の交流重賞黒船賞をすっかり忘れていた。馬連一点にがつんと賭けてうまい思いができそうな結果だっただけに買い忘れたのが惜しい。なににもまして、今日は午後三時から二年ぶりの歯科医院だったのだ。

 左下奥から四本目、犬歯の隣が唯一痛む歯だったのだが(それ以外にも私の素人目で痛みはしないが齲歯だとわかるのは三本ある)、これはとても大きい虫歯だとレントゲンを撮られ、結果、こう言われた。「歯の根の最後まで達して神経全部が食われている、どうしてこれで少し沁みる程度の痛みなのか」と。よく言われる、私はあまり虫歯が痛まないのでようやく腰を上げて行ってみると虫歯だらけなのである。その他の歯もざっと検診されてまた通ってくれるかと言われた。以前は十何本が虫歯で半年以上毎週通った。あいにく医者は虫歯何本と言わなかったけれど、なんだか最低でも二ヶ月半はかかりそうだと思った。A型作業所をやってみようと思っていたのに、どうしたものか。

 金原ひとみのマザーズを読了した。内容はさんざん宣伝されているだろうから案外どうでもよくって(狂気を相変わらず書いていてそれが育児にまわっただけだ)、それ以上に構成がとても面白かったことに途中から気付いた。

 あの小説は三人の母を視点人物にして一人称で順繰りに回していく形をとっている。三人の母はとある未認可保育園で繋がりを持つ。で、一人称で複数人物をまわしておきながら相互に言及しない。同時間の別側面を描こうとしない。通常、といっていいのかわからないが、あえて複数人物を一人称で書き分ける場合、Aが語り、章を変えてそのAをあるいはAが見ていたものを、最低でもAが主体になった同時間のものを、今度はBが補完あるいは追加するものだし、したくなるものだ。そうやるから物語が重層化するのだし、一人称を使うということは感情面の掘り下げをやりたいからで、なおのこと一のことを十にも百にも見させて語らせたくなるのが書き手の常のはずが金原ひとみはそれを鮮やかに破壊した。Aの章→(Aが語った時間のあとの)Bの章(BはAが語っていた間の事を何も語らず)→Cの章(略)という具合で時間軸が一直線でこのリレーを繰り返して小説を進めている。

 このような小説、きっとあるだろうけれども短篇や中篇ならまだしも文庫本サイズで600ページのものに適用したのだから意図あっての工夫であり仕掛けだ。Aの章の時、BやCは何処で何をしているのか一切語られない、ある種の手落ちを受け入れながら読書が進んでいくのである。

 実は凝った実験小説だったような思いでいるのだが買い被りすぎだろうか。