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2016/03/31

 寝てばかりいて、風呂に入ってようやく怠さがとれた感じ。本を開いても瞼が降りてきて片目も開けていられないくらいだったからどれだけ疲労したのだろうと唖然とするのだけど、まあ疲れはとれたにはとれた。

 今は古井由吉の『聖、栖』を読んでいて聖を読み終え、栖の二章に入り頁数で言えば210頁で半分は読みこなしたといったところ。うち、栖は日本文学大賞(三島賞の前身、のようなもの。分裂して山本周五郎賞もできたが)をとっている80年の小説。絶版状態の文庫をわざわざ元値の二倍で買ったのは解説が前田愛なのと収納を考えてで、今だったら自選集に二つとも入っている。

 ダブル村上が夜に出ていて、戦後生まれ初の芥川賞作家になった中上健次もいて、ニューアカが始まりだし、その年代終わりには昭和が終わるという、戦後日本文学の一つの黄金期、だと勝手に私は思っている。

 それで古井を好きだ好きだと喚くのはきっと構わないし理由もいらないと思うのだけど(好きは感情だから)、凄い凄いとは無責任に言えない、何で凄いのか言わなきゃいけない、これは客観対象になりうる。

 といって私が何か言えるのは谷崎賞中上健次と争った『槿』(アサガオ)まで。文体論やレトリックに関しては何冊か読んでいるけど、まあ役に立たないよね。それが進んでいくとどの単語がどれほど使われているか、みたいなもう国語学一色になっていくので深入りはしなかった。だから文章が凄いというと私の中では修辞が凄いという事になってもうそれでいいやと思って先に進んでない。

 古井の場合は案外典型的な所があって、日本文学が獲得してきた一人称と三人称単一視点くらいしかない。それ以上へは拡がらない。狭く狭く深い所に潜り込んでいく文章なのだけど、直喩より隠喩がふんだんに使われていて、物凄くナチュナルに文章に度々入り込んでいるから、流されるように我々は読んでしまうのだけど、そこにストレスがかかって中々読み進むスピードが、ギアがあがらなくて、どうしてだ? と思い返すと流されるようでありながら岩に何回もぶつかっている読書になっていてその岩こそが駆使された比喩だ。その直喩も隠喩も一応に比喩として括っておいてそれでもひっかかってしまうのは喩える対象が静止した物体ではなく動的なもの、擬人的なものやその仕草なり行動であって、その組み合わせが意外な結びつきだったりするのだ。ここに例を引くのは面倒臭すぎてやめるけど、流されるようにと書いた通り、古井の比喩は、比喩が使われた時点で文が終わらない、くどくど書かれているわけではないけど使い方も動的で容易に立ち止まらせてくれない、無理して検討したがり立ち止まっていると肝心な物語の筋を見失う。息をつけない切迫した山場のような所を拵えるのは古井もやっているがそこでも比喩は健在だから読み手は一気に駆けていけない。自然、濃密さ緻密さを感じさせるが、ギリギリの所で日本語の破綻を回避して重苦しさからも逃れているから、そういう所が凄いのだ。簡単ではなく軽くもないけど難しいわけではないし重くもないという。それでいてここは表現上の比喩だよーと言ってくれないから謎の深さを感じてしまうみたいな、そんな感じ。もういいや読書に戻る。