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2016/04/13

 なかなかの時間を外出にあててしまうとうんと疲れてしまう。外にいると気分も高揚しているだろうからアッパーの麻薬が効いているようなもので平気な顔をしているのだろうけど、ひとたび家に帰り着いて落ち着いてしまうと気を張る必要がなくなるから弛んでどっと節々がこわばる。といって何も出来ないかというと受動的な事に関してはできるのだが、能動的な事に関しては極めて難しくなる。強引に頁をめくろうとしても文字がうまく入ってゆかないのだから、むしろ進めてはいけない、楽しめてないし為にもならないし、字面を追っていくだけでは意味がない。

 悪い事は重なるもので、甲類焼酎が切れそうだ。というか今飲んでいるもので切れた。ホッピーだけ15本ほどはある。一人暮らしをしていた時から夙に感じていたことではあるのだけど、空腹は案外曖昧にできるものだが(急性胃腸炎で1週間絶食した事もある、食っても吐いてしまうので)、喉の渇きに関しては我慢のできるものではない。煙草のニコチンもそうだが、私がCHERRYの販売停止後紙巻に限ってはロングピースに落ち着いたのもあれは吸い口(フィルター)のついている、両切りではない煙草ではもっとも効率的にニコチンを摂取できる代物だからだ。乾きが潤いを求める切迫感は相当なものである。

 乾きといえば、書き物をする場合も同様で、いかような文脈で喉を潤わしていたかで好都合不都合が起こりうる。フィクション以外のもの、学術書でも専門書でも論文集でも何でも構わないがそういった資料的文体の文脈で満たしてしまうと、モードがそれになってしまって論文こそ書けれど、途端にフィクション調のものがふと書けなくなる。赤い水から青色を生み出せというようなものである。それは今年の2月3月によくよく痛いほどわかった。確か後藤明生だったと思うが小説を読むから小説を書くといったような事を述べていたはずだが道理である、肺の中をフィクションの文脈で満たさないと情感的な文章は口から出せない。そういう意味ではだいぶフィクションの気分や文脈をここ1ヶ月摂取してきたのだからそろそろ書けそうだし何だか自信も取り戻してきたように感じる。

 5月、遅くて6月の終わる前には執筆にとりかかれるかもしれない。やれそうな気がする。