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2016/04/20

 今期よりテレ東の火曜深夜から夏目友人帳の第一期から第四期までの傑作選が放映されているのだけど、間のCMにデュラララのテーマ曲集アルバムCDの宣伝を隔週で入れるのはやめてもらいたい。せっかくのハートフルで心優しい夏目くんを見て癒やされたいのに、Bパートに入ると腹黒い折原臨也がダブりだす現象に苦しんでしまう。一昔前の堀江由衣全盛期のようなもので某男性声優の人気がすごい事の弊害だから誰にも罪はないと思うけども。

 それはさておき調子が戻ってきたのでやっと読書が捗ってきた。たぶん明日にはようやっとピストルズを読み終えられると思う。忘れないうちに書いておこう、神町サーガをやろうと心付いたというか決心したのがあのシンセミアだと思うが、シンセミア連載中に余興で書かれた中篇で野間文芸新人賞をとったニッポニアニッポンを始め、遅すぎた芥川賞受賞となったグランド・フィナーレもそうなのだが、ちょっと安直に、阿部和重にしては珍しいくらいにわかりやすすぎる今挙げた二作への関係性を、というかその裏を書いて綜合しまとめるような感じの展開がピストルズでは書かれている。意外にもこういったものは実は阿部和重にはなかったのだ。わかりやすい〈記号〉が、実は神町サーガには弱いという性質が実はあって、それは今のところだけだと現在進行中の事だけにそうも言えるかもしれないが、断定してしまうと〈神町〉という土地名しか記号がない。これが中上健次だと殊の外たくさんある。〈路地〉なんて言ったらまさにそうだがオバだのイネだの紀州の方言がもうそのまま〈記号〉になる。

 これはウィリアム・フォークナーにも言えることで架空のヨクナパトーファ郡と黒人が出てきたら、ああはいはいとなるし、特に邦訳だと顕著になってしまい、かつ改訳の際は恐らく差別的であるとして改められるであろう、白人と区別するために黒人の喋り方が東北のズーズー弁になっているなどで、すぐにわかるようになっているのだけど、標準語という国家的押し付けがテレビ、特に日本放送協会によって(だけではないけど)若年世代に定着していった結果の、現代的らしいとも言える土地の力の減退を阿部和重は書いてしまっていると言える。山形県にありながら方言はせいぜい高齢の登場人物くらいしか話せない、というか若い衆が話していると甚だ違和感を覚えるというのがまさにそうだ。

 明確にどこにその区切りを見つけられるか、というのを戦後日本文学史として研究してみると意外と賞賛を受けそうな気がたった今思いついた私にもするので多分どっかの研究者が論文をもう書いているだろうけども、舞台を首都圏ではない地方にした場合、標準語を話させる場合はわざわざ東京から引っ越してきたとかそういう説明が必要なくらい方言の力は強かったのだけど今やそれはない。対抗できているのは関西弁と九州弁くらいだろうか。

 と、まあ最後まであと少しで読み終えるしこれ以上考えを深めてもこんな印象が吹っ飛ぶ展開が待っている可能性もあるからこれくらいにしておこうと思う。