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2016/05/03

 今日は寝ない事にしよう、とふと思いついた。なぜかって眠くないから。あんまり薬自慢はしたくないからなるべく端折るけど、マイナートランキライザーの方の眠気は克服している。克服というか効かない。一方のメジャートランキライザーの中で私のものはセロクエルなので、これの鎮静、傾眠の作用が凄いからどんな時でもころっと寝てしまう。これを今日は早めに飲んで寝て起きた次第であるから、ちょっとこのままに。

 日付の変わる頃にもなると我が家の周囲はゴーストタウンのごとく寝静まってしまう。発情期なのか、猫の喧嘩の声が幾度も幾度も響いていくる中でマルキ・ド・サドを読んでいた。あと2時間もあれば読み終えるだろうけども、この日誌は日課にしているので今のうちに書いてしまう。

 

 マルキ・ド・サドのやり方は道徳の打破だ、と言った。過剰な性描写や異常性欲たる嗜虐性(サディズムの所以である)をあえて書くことは、性描写そのものが道徳を打ち破るからに他ならない。またキリスト教等々の宗教道徳を批判し、そんな根拠不明の道徳など捨て去ってずる賢く渡世するが成功の秘訣というような書き方をしている。迷信めいた道徳を信ずる阿呆共め、と一面的には読める。これがこれ、痛快ではある。

 その一方で、キリスト教系の権威者(悪徳の栄えではローマ法王まで出てきた)や、司法関係の権威者、政権の権威者、血筋立派な大貴族などが、性に奔放で強欲で悪事に悪事を重ねて成り上がったり、お遊びで拷問を楽しんでいたりする。

 こういう風に整理して書いてみるとわかるが、あらゆる方面の支配層は、悪いことをしてのさばっているのだ、という告発めいたものとも読める。ここらへんが、私は仏文学の演習授業には出た事がないから先行研究がどうなっているんだか何にも知らないのだが、マルキ・ド・サド自身貴族だがそれは別として、貧者弱者にとってのルサンチマンの解消を手伝っているようにもとれる。清貧の文脈に収斂させていく読み方も可能だということだ。

 この見方を採用すると、たちまちマルキ・ド・サドは被支配層のヒーローになってしまう。この見方はあくまで邪道だ。

 しばしば地位ある奔放者たちから漏れる長広舌でマルキ・ド・サドの思想を代弁させているが、その中ではまずは司教等も含め全員無神論者で、神ではなく自然がこの世を支配している、その自然は事の良し悪しなどに言及などしていないと主張する。生き証人が我々だ、みたいな感じになる。

 最高裁裁判官などはこのようにも言う、法などというものはその土地の習慣に依って立つので、ヨーロッパで良しとされる事がアジアでは悪とされている事が無数にある、その逆も無数にある、つまり法律などただの詭弁で時代や土地柄でころころ変わってしまう、だから守る必要ない、と。わあ、グローバルな考え方だと感心する。

 要は無軌道に心の思うままに生きよ、立ちはだかる障害はこれを誘惑し陥れ、むしろ味方へと懐柔して世を楽しめ、神はいないのだから天国も地獄もない、存分にやれ、自らを解放せよ、みたいな力強いエールなのだ。だからマルキ・ド・サドを読むと元気になれる。正直者は馬鹿を見る、の論法でやっつけているので糞真面目どもが鼻を明かされ滅んでいく。これをそのまま楽しめば良いと思う。

 さっき挙げたルサンチマンの解消の方の読み方は、研究者として論文のオリジナリティを保つため他者と違う事を言わないと、みたいな立場の人間が利用すればよいのであって、我々がそちらに傾く必要はない。夏目漱石の「こころ」が、同性愛、ゲイ、ホモセクシャルとして解釈されだして四半世紀くらい立っているけど、この読み方だって邪道でしょう? 考えるのは良いことだし、他人と違った感想を持つのはとても良いことだけど、職業上の必要がない限り、読書は心の赴くままに楽しむのが一番である。