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2015/06/01 陰性症状の意欲減退(興味関心の喪失)

 柳田國男の「笑の本願」を援用してどうのこうのと言ったが、まあ3年くらい前に読んだものだから細かい所は記憶違いしている可能性がある。

 人間の〈笑う〉行為は、攻撃であった、と説く。戦いのあった後、勝者と敗者に分かれるが、ここで笑うのはどちらなのかというと、むろん勝者である。勝者が敗者を見降ろして、見下して口をガバッと開け破顔して〈笑う〉のである。これが〈笑い〉の原型だ。

 〈笑い〉とは攻撃である、という意味はそこにある。他人に笑われるような事はするな、なぞ、様々な人間がしつけの際にセットで言われたと思うが、馬鹿にされないようにする事、敗者側に回らないようにという遠回しの意味がある(後者の理由は普通の両親はほぼ知らんだろうが)。
 敗者の側からするとどうなるか。他人から〈笑われる〉という仕置は、耐え難い屈辱である。恥の文化の国と呼ばれる日本において、いの一番に回避せねばならないのが、この〈笑われる〉ことである。柳田國男の「笑の本願」はさらに読み進めると、民衆のガス抜きとしての道化――〈笑われる〉装置――が定番の話として村の中に作らていったと説き、室町時代辺りからは笑われる事を職業にする下賤の者が現れ出し……という風に続く。

 

 もうこの辺にして私の話に移る。今日、1ヶ月に1回通院している精神科へ行って、医者と話しながら何でこうなったのかと振り返り考えていた。
 私はお笑い番組が見られなくなってしまった。他人が笑っている顔を見ると恐怖で身体が硬直してしまう。他人の笑顔がとても怖い。そう、笑顔というものは元来怖れるものである。
 そして何より、テレビから笑い声が聞こえてくると発狂する。スタッフが笑い声をわざと入れていたり、あるいはバカ殿など開き直ってテープ録音丸出しのサクラ的な笑い声を挿入してくるがあれが本当にダメ。私が笑われていると脳みそが錯覚する。何回かその場で嘔吐した事がある。今でこそ吐いたりはしないが、無意識に耳を手で抑えていたりする。
 これは私の統合失調症陽性症状の名残りだろう。幻聴は私を馬鹿にしていた。馬鹿にして笑っていた。

 この事からバラエティー番組が一切視聴できなくなった。


 主に陰性症状を中心とした3年前の再発では、そこに加えて強力な〈意欲減退〉が襲ってきた。
 〈意欲減退〉とは何か、と問われると読んで字のごとくですよ、という答え方が正解なのだが具体例を挙げないと感覚的にわかってもらえない気がする。意欲、すなわち興味と関心を含む能動性が著しく制限されるか、全く失くなる。
 テレビや小説、漫画、果ては衛生管理における、入浴や部屋の掃除、服のオシャレにも気を向ける事ができなくなってしまう。(障害年金申請書にはこの衛生管理が一人でできるかどうかというチェック項目がかなりの割合を占めている)。
 私の場合、服はまだ好きだが、入浴、風呂に入るのが非常に苦痛だ。もう本当にどうしても入りたくなくて、ひどい時は2週間風呂に入れなかった。いい加減に風呂入れシャワーだけでもよいと親に言われた際、風呂に入るくらいだったら自殺する、と私は本気で答えた。今はやや回復してきて2日に1回はなんとか入れるようになった。歯磨きはまだ毎日できない。掃除もむろんできない。


 テレビに関しても今はニュース番組と深夜アニメ、中継もの(国会、競馬くらいだが)しか見られない。それ以外のジャンルで見ているものはとても少ない。見ていない、見たくない、のではなくて〈見ることが不可能〉である。
 その中継ものでも、私は野球ファンだから野球中継は好きだった。今の時代は民放の地上波から退いてNHK含むBSの方でやっているが、その野球もいつしか興味を失い見なくなってしまった。

 

 映画も食べ物も興味関心がない、と何日か前にこの日誌で書いたが、最大の原因は悪化の一途をたどった陰性症状であった。それで、お笑い番組が笑い声のせいで一切見れなくなったのと並行して、そういうバラエティー番組含め、わざと何かを演じる、つまりフィクション=嘘っぱちを生の人間が演じているという光景が私には恐怖の対象になった。恐怖から脱出するためには恐怖の対象物から逃げるしかない。
 つまり一生懸命に、俳優たちが見る側を騙そう騙そうとしている、それが演劇、映画、TVドラマである、そういう認識になる。ここには被害妄想の名残りが入っているのだろうと推測しているが、ともかく芝居全般を見る事ができなくなってしまった。
 演技をする俳優たちからは、あるはずがないというかむしろ逆なはずだと理屈でわかっているが、私の事を騙してやろう、という悪意敵意殺意しか感じられなくなった。気味が悪いし生命の危険がある、という風にしか受け取れないのだ。貞子でもあるまいし、テレビ画面から手が伸びてくるわけでもなかろうに、どうしてこんな発想がこびりついて怖がっているんだか、私だってわからないのだ。これを今日、医者に訊いてみたがやっぱりわからない、と。もう誰にもわからないじゃないか。


 深夜アニメをまだ見られているのは、生身の人間が写っているわけではないからだろう、くらいしか思い浮かばない。けれどこれもいつまで興味を持てていけるか。もしかするとひょっこりひょうたん島は見る事ができるかもしれない。試してはいない。

 

 今の所、私が興味を持てているのは、(1)競馬、(2)小説含む文学、(3)酒、(4)煙草、(5)アニメ、(6)時事ネタ含むニュース。本当にこれぐらいである。この6つに絞られてしまった興味関心物を、もう失わないように積極的に消費し摂取することを続けたい。
 そしてだが、これ以外の事柄に関しては本当に毛ほどもないくらい興味関心が失せてしまった。私の中で喪失した文化的事柄は、残念だがもう一生、私の心を打たないだろう。これらへの興味関心の回復、それに努めるのは精神的疲労が大きくかかる、悪くすれば正気を失い、違う世界へ行ってしまうかもしれない。よってできない。
 こういった意欲減退が最悪まで進んだ時、その人間を形容する言葉は、廃人、である。ベッドで横になり、といって睡眠しているわけでもなく、濁った眼を開いて、口をぽっかり開けて、微動だにせず、呼吸をし胸を膨らませながら、天井の木目か何かを眺めている。そういった状態が私の最終的な行き着く先になる可能性は、怖ろしいことにゼロではない。


 残された興味関心物で何かしら能動的に打って出られるものがあるとするなら小説創作なのである。統合失調症の作家というのは、実は何人かいる。クランチノベルス文学賞の第一回受賞者が統合失調症をカミングアウトしていたはずだ、すぐに読む気はまだないのだが。

 

 本物の病者が、病者として自覚的にものを書くこと、その際、常人とは明らかに異なりかつ劣る部分も包み隠さず全てをオープンにしてやっていく事。これは私の戦略である。もはや短所しかないようなものなのだから、それを長所へ逆転させる以外に方法が見つからないじゃないか、と思えてならない。