読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2016/06/03 高崎競馬場のエッセイ(8年前執筆)

 さんざんテレビが見られないよ、怖いんだよと言っておきながら多少の例外はあると言ったがその例外が火野正平のやっている日本縦断こころ旅、である。あれは多くの人にとってどうでもよい変哲のない場所だが、その人にとっては格別思い出深い場所、心の風景へゆく、というコンセプトである。
 私の心の風景はなんだろうか、と思った。嫌な事をされた場所は鮮明に覚えている。理不尽な理由で親父にぶん殴られたとか。それは心の風景ではないので(恨みの風景かな)、もうちょっと考えてみると利根川の河川敷か高崎競馬場だろうと思い至った。
 その昔、習作として本当にヘタクソなんだけど高崎競馬のエッセイを書いた事がある。文芸サークルにいて、文芸同人誌掲載ページ数を割り当てられていながら、ネタが思いつかなかったので12時間で書き飛ばしたもの、だったはず、私の記憶が正しければ。

 原稿用紙14枚、5059文字である。中上健次が「破壊せよ、とアイラーは言った」だったか何かのエッセイ集で高校時代の習作を載せていた。それに倣って私もあのヘタクソなエッセイを載せてみよう。読んでいると恥ずかしくなってくるが、こういうのは今の私が手を加えちゃいかんので一切推敲なし。こんなヘタクソなのを書いて一生懸命創作の勉強をしていたのだ。

以下に本文。

 


「さらば高崎競馬

 私の生まれは群馬県前橋市である。北に福島県新潟県、南に埼玉県、東に栃木県、西に長野県と接している。そして関東地方に属している。
 県内には利根川が流れ、山々が聳え立つ。多くの田や畑が拡がり、私の実家の廻りも大きな田圃がある。六月を過ぎると田に水が張る、稲を植える。実家の自室から眺められる田園風景を私は今も愛している。
地方ゆえの平べったい大型店舗が目立ち、高い建物がそうそうないせいもあって、空がよく見える。広々としている。東京から実家に帰るとよくそのことを実感する。
 群馬と言えば、みなさんは何を思い浮かべるだろうか。草津伊香保の温泉か、焼き饅頭か、尾瀬の自然か、嬬恋のキャベツか。文学に精通しているみなさんなら萩原朔太郎の生まれ故郷だと思い浮かべるかもしれない。しかし、それらとは別の側面を群馬県は持つ。それはギャンブルの県だということだ。
 パチンコ店はいたるところに在り、前橋競輪、桐生競艇、伊勢崎オート、そして高崎競馬がある。実に公営ギャンブルの全てが揃った格好だ。私は中でも高崎競馬を好んだ。

 私が小学四年生ごろであったか、テレビで『みどりのマキバオー』という競馬アニメがやっていた。それを一話も欠かさず見た。夢中で見ていた。その頃から私は競馬に興味を持ち始めていたような記憶がある。
その翌年だったか、新聞のテレビ番組欄を見ていて、午後三時にフジテレビで競馬中継番組が組まれていたのを発見した。小学五年生の私は何とはなしにチャンネルを合わせそれを見たのである。
スペシャルウィークのダービーだった。今調べてみると九八年のことである。はや十年、時間の経つのは早い。東京競馬場の溢れんばかりの観衆、美しい体躯のサラブレットら、それの走る姿の優雅さ、レースの熱狂ぶり。私は一気に競馬にのめり込んだ。
 それからというもの、毎週土日の午後は競馬番組を見て過した。GⅠの時には友人からの遊びの誘いを断ってでも、見た。サイレンススズカが死に、テイエムオペラオーメイショウドトウの時代になり、いわゆるテロ馬券のマンハッタンカフェアメリカンボス有馬記念など、今でも鮮明に思い出せる。
 高校生になって、私の行動範囲も拡がった。それまで前橋市内を出たことなどほとんどなかったのが、高崎市などに出向いて遊びに行くこともしばしばになった。もちろんその頃でも競馬は欠かさず見ていた。
 学習塾で知り合った友人にKがいた。背格好は私よりちょっぴり小さいものの、物事に対し大胆、というのが私のKに対する印象だった。Kも大の競馬好きであった。それで私達は意気投合し、今まで見てきた競馬を熱く語り合った。
彼はもう高崎競馬場で馬券を買っているという。私は随分驚いたものだ。
「そういうのってバレないの?」と私が訊く。
「バレないよ。ていうか煙草も酒もやってるくせに妙にビビるね」とKはからかうように言う。「いや別にビビってるわけじゃないよ?」と虚勢を張った。正直ビビッていた。
煙草も酒も、自宅で隠れてコソコソやっているに過ぎなかったのである。制服には当然煙草の香りが移って教師になじられたが、現物を持っていなかったので何のお咎めもなしだった。証拠がなければ教師は手を出せないのである。
 しかし競馬場で馬券を買うのは、そうコソコソとやるというわけにはいかない。オープンにやらなければならないのだ。十月の初め、私はKに連れられて自転車で高崎競馬場に向かった。期待・喜び半分、不安・恐れ半分の心模様で。
 高崎競馬場に着いた。レース開催中なので、入場料として百円を払った。地方競馬場だから建物など古いのだが私には新鮮に写った。
「ここが競馬場かあ」と目をキラキラさせていたに違いない。おじさんやじいさんが競馬新聞を手に持ち幾人も私達の前を通り過ぎていく。レーシングプログラムを手に取り場内を進んだ。
 一周一二〇〇メートル、直線三〇〇メートルの小さなコースである。それでも何もかも初めての私には「わあ、広いなあ」と思ったものである。スタンド席の上の方に私達は座った。競馬場の向こうには小山が連なり、右手には高崎観音が見えた。
 ちょうどコース上ではゲートが用意され、十頭ほどの馬達が集まっていた。馬達は大人しくゲートに収まり安っぽいファンファーレのあとに、レースが始まった。ドドドドドドという馬達の蹄の音。直線での攻防。騎手は懸命に馬を追って鞭を振るう。あちこちで怒声や罵声が響き渡っている。私は興奮しきって鼻の穴を大きくしながら観戦していた。
「生で見ると違うでしょ?」とKが言う。私は激しく首を縦に振った。この興奮をどう伝えていいのやらわからず言葉が発せられなかった。
 高崎競馬の一レースを観戦し終えた私達は馬券発売場の建物に入った。その頃、高崎競馬は経営的に苦しんでいて、メインレースのみ中央競馬の場外馬券発売も扱っていた。そう、その日は中央競馬のGⅠの日だったのである。二〇〇三年の十月、第三十七回スプリンターズステークスの日だったのだ。私はKに教えられつつマークシートを書き、ビリーヴとデュランダルのワイド馬券に三百円ほど賭けた。
 粘るビリーヴをデュランダルが恐ろしいほどの末脚を使って差し切った物凄いレースだった。初めて馬券を買ったレースなので本当によく覚えている。馬券が当たった事以上に、その鮮やかな勝ちっぷりに感動した。配当金は千円ほどだったように思う。
 その日から、毎週日曜日はKと一緒に高崎競馬場に通った。
 主目的は中央競馬の重賞レースで、高崎競馬はその合間にやるという感じだった。行き慣れてきてわかってきたのだが、経営に苦しんでいるというのにも納得できるような気がした。
中央競馬場外馬券発売所には人がひしめきあっているが、一方で、高崎競馬の方はというとがらんとしている。スタンド席も空席があまりに目立つ。私もそんな高崎競馬自体にはあまり興味が持てずにいた。それよりも華やかな中央競馬の方にどうしても目が行った。
 高崎競馬では水野貴史騎手がいつでも一番人気で、そして勝っていた。勝って当たり前のように勝った。オッズが単勝で一倍台がしょっちゅうであった。私とKは水野騎手を「高崎の武豊」と勝手に呼んでいた。
 高崎競馬には全国でも珍しく女性騎手がいた。赤見千尋騎手である。中々に美人で、固定ファンがおり、赤見騎手がコース上に現れると、「あかみちゃーん!」とみな一斉に叫ぶのである。その様子はとてもおかしく、私達はクスクス笑ったものだ。

 高崎競馬は隣県の栃木県の宇都宮競馬、足利競馬ともに北関東競馬と呼ばれた。しかし足利競馬は二〇〇三年の三月には既に閉鎖されていた。
 高崎競馬や宇都宮競馬にも閉鎖の危機は刻一刻と近づいてきていたらしい。翌年の二〇〇四年、その年限りでの高崎競馬の閉鎖が表明された。宇都宮競馬は二〇〇五年三月に閉鎖するとのことだった。
 すると、当時はまだ人気者というか何というか、まだ勢いのあったライブドア堀江貴文高崎競馬を買うと言い出した。私達は期待したが、結局、県と話し合いがつかずに終わってしまったようであった。とんだ肩透かしであった。
 いよいよ終末は近づく。私達は以前より積極的に高崎競馬の馬券を買った。あのコースでは逃げ先行の圧倒的有利で、差し追い込みなど滅多に届かないから馬券を的中させるのは簡単だった。ゆえに配当も少ない方であった。それでも私達は、滅びゆくものにひきつけられるように馬券を買った。ここに来てようやっと、高崎競馬に愛着が湧いてきてしまったのである。
高崎駅前などで、ファンや関係者などが、高崎競馬存続への署名を訴えていたが、どうやら無駄に終わってしまったらしい。

 二〇〇四年、十二月三十一日。一週間ほど前のゼンノロブロイ有馬記念で、三連複馬券を見事的中させた私は重い財布をコートのポケットに入れ、Kとともに高崎競馬場へ向かった。今日で高崎競馬は終わるのである。メインレースの高崎大賞典を含む十二レースが組まれていた。
 この日は異常に寒かった。天気予報は雪だった。道中で雪がもうちらちらと舞い始めていた。
「雪でも競馬はやるのかね?」、そう私はKに訊いた。
「ううむ……」とKは唸っただけであった。
そして高崎競馬場に着いた。着いたころには本格的に雪が降っていた。あたり一面銀景色。私達は第一レースからいたのであったが、時間が過ぎるとともに雪の降り方はひどくなった。普段茶色いダートコースも真っ白になってしまう。ダートコースを整備する特殊な車が、ゆっくりコースを一周すると茶色に戻るがすぐに白く戻ってしまう。
 雪はどんどん降る。それでもレースは続けられたが、近くにいた鼻を赤くしてワンカップ酒を呑んでいるじいさんがぼそっと呟く。
「こりゃあ、そろそろ中止になっちまうかもなあ、大丈夫かなあ……」
 その心配ももっともであった。風があったなら吹雪になるであろうほど、雪の勢いは凄まじい。
私達はゴール前のスタンド席にいたのだが、第四コーナーを馬達が周っても一向に姿が見えない。ただしんと静かな彼方から蹄の音だけは聞こえてくる。残り一〇〇メートルくらいになってやっと馬達が見え始めるといった具合なのである。
「頼む、ああ、今日は神様を信じる、どうかメインレースまでもってくれ、雪よ、もう降ってくれるな」とかじかむ手をホット缶コーヒーで暖めながら祈った。私の祈りもむなしく、雪はさらに勢いを増す――。
 第八レースは何と赤見騎手が勝った。そして無常にもそのアナウンスは響いたのである。
「積雪のため、第八レースをもちまして中止とさせていただきます……云々」
高崎競馬の歴史の最後を赤見騎手が飾った。例の「あかみちゃーん!」が方々から聞こえる。この時ばかりは私もKも笑わなかった。むしろ一緒に叫びだした。
「あかみちゃーん! おめでとう!」

 その後、簡単なセレモニーか何かが催されたようであるが、私達は自転車で来たので、すぐさま帰った。帰るのにとても苦労した。雪のせいで自転車が一向に進まない。私のカーキ色のコートも真っ白になってしまった。普段なら三十分ほどの道のりを一時間近くかかってようやくそれぞれの家に辿り着いた。
 雪まみれの私を見て母は
「どうしたねえ、その格好は。あんた八甲田山にでも行って行進してきたのかい?」とからかわれた。
濡れた服を脱ぎ捨て乾いた物に着替え電気炬燵に潜り込みながら私は考えていた、今日のことについて。高崎競馬八十年の歴史は雪で以てして閉じられた。何もかもを真っ白にして高崎競馬は終わったのであった――。

 その後、何故だかわからないが、二〇〇五年の三月からNHKの朝の連続テレビ小説で『ファイト』というドラマがやった。舞台は群馬の高崎で、しかも競馬のドラマであった。これを二〇〇四年に放送してくれていれば、高崎駅前での署名活動にも大きく影響したかもしれないのになあ、と思いながら見ていた。
 高崎競馬場の跡地を「ザスパ草津」(群馬のサッカーチーム)用にサッカーコートにするという噂が一時飛び交ったが、「日本レーシングサービス」という会社が業務を引き継ぎ、名前を『BAOO高崎』と改め、中央競馬全レース及び全国の地方競馬の場外馬券発売場として生まれ変わった。
皮肉なことに、中央競馬全レースを取り扱ったことで、客はぐんと増えた。週末はとても賑やかである。
「高崎の武豊」こと、水野騎手はその後、浦和競馬に転じたらしい。高崎競馬時代のように勝って当たり前という具合にはなっていないが頑張っているようである。
高崎の女性騎手、赤見騎手は現在騎手を引退し、UHF放送局(テレビ埼玉テレビ神奈川千葉テレビ群馬テレビとちぎテレビ)で放送されている『中央競馬ワイド中継』という番組でリポーターを務めている。やはり中々の美人である。
 そして高崎競馬のダートコースは、コースの形は残した上で、しかしコンクリートで固められ白線が引かれ、駐車場として利用されることになった。コース形態がそのまま残されたのは嬉しいのだが、そこを自動車がのろのろと走っているのを見ると何ともやるせない気持ちになってくる。ダービーや春秋の天皇賞のときなどは、かつてのコース上に車がびっしりであった。
 しかし私はいつまでも覚えている。決して忘れたりはしない。かつて、高崎競馬なるものが存在し、今は駐車場になったダートコースを、力強く、蹄の音を響かせて走る馬達がいたことを。そしてあの最後の大雪の日のことも。(了)