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2016/06/09 新しいものとは何か+カエルくん

文学 雑記

 たとえば小説の話であると、公募の新人賞に応募するのだが、どういったものを書くべきか? 新しい価値観、新しい文学観、新しい文章表現ないしは文体、新しい構造……等々を持つ小説。

 じゃあ新しいそれらって何っていうと、わからない、こっちが教えてほしいくらいだ。そしてわかった、という人がもしもいる場合、絶対に他人に教えないだろう。宝くじ1等当選と同等の価値であるからして。
 構造主義以降、いろんなものが出てきてナラトロジーなんてものも出てきて、わかってきた事は、小説の構造、いや物語の構造においては、何百年も前に既に出尽くしている、という事だ。(ここで私はロシア・フォルマリズムがやった、異化作用、とまで行かないなら文体を衣装のように使えばいいんじゃないかと思っているのだがそれは措く。)
 それでも既存の作家や、未来の作家たちは、新しい〈はず〉の小説を書いていかねばならない。どうすればよいのか?

 

 私は日本近代文学方面で大学院にいたから、文学部の論文やレポートの話ならできる。文系の論文の準備や書き方はたぶんどの学部や専攻でも同じだろう。実験をする理系の人やアンケート調査などする心理学科の人の論文はやり方は全然知らないからそれは措いておいて。
 まず研究する対象を選ぶ。日本近代文学の範疇で学術論文を書こうと思った場合の、最難関の一つと言って良い芥川龍之介作『羅生門』にしてみよう。

 

論文を書く準備
1-1 原稿用紙と万年筆。あるいはワードプロセッサ。あるいはパーソナルコンピュータを手に入れる。
1-2 『羅生門』を読む。何度も何度も読む。

 

2-1 芥川龍之介全集を全て読む。随筆や俳句や書簡まで全て。芥川龍之介羅生門を書く前、書いている途中、書き上げた直後、書き上げて数年後、自殺する寸前など、直接羅生門に関係しなくとも彼の考えていた事を可能な限り追体験して知識として備える。質疑応答向けの防御策である。
2-2 今昔物語を読む。現代語訳のついている小学館の古典文学体系でもいいが、岩波の古典文学体系ではなかった、とバレた瞬間点数が50点ほどマイナスになる。うまく誤魔化すべし。

 

3-1 『羅生門』発表当時の同時代評を集める。現在ではゆまに書房より、便利な同時代評集が出ているが、あれは完璧ではなく若干の漏れはある。本気でやるなら国会図書館などに行く必要がある。それと鼻や芋粥などの論文に顕著だが、夏目漱石芥川龍之介へ向けて送った書簡も重要な資料になる。まあ、この夏目の評から論を起こす事が結構多いと思うので、自然、夏目漱石全集も読破しないといけなくなる。
3-2 芥川龍之介単体の作家論、羅生門の作品論にはどんなものがあるか調べるために『芥川龍之介研究史』(積み重なった先行研究を整理して列挙しただけの代物だが、それだけで一冊の本になり、著した人は単行本発刊という名誉を得る)[(本の名前適当、ちゃんとしたの忘れた)]を読む。
3-3 めぼしい論文を30点ほどには絞る。それ以上は生涯を賭して『羅生門』研究すると決めた人の道なので、そこまでではないなら30点ほどでよい。やれるなら50点かそれ以上読むべきだが。

 

4 先行研究、参考文献を集める。むろん、単行本にだけ収まってくれるわけもなく、学会誌、大学紀要論文にもあたらなければならない。利用できる大学図書館や近所の図書館に目当ての紀要論文等がない場合が必ずある。そうした場合CiNiiで、在り処を探す。(必ず、絶対に、第一次の文献にあたる事。孫引きは失格。)中々見つからないなら国会図書館
※先行研究のここで注意するが、羅生門は中学高校の国語教科書に必ず載っている。よって教材としての研究も星の数ほどある。「日本文学協会」という国語教育に特化した学会のものも当然読みこなす。この、教材に使われてもいる、というのが羅生門研究ではうざったく、難しい所である。

 

 これで準備は整った。本題、新しいもの、文学研究の場合は《新しい解釈や指摘》となる。
 1~4の作業をして文献を読んでいけば、恐らく99%の若き研究者達は次のようになる。
 しくしく泣き出すかもしれない。ビービーうるさく泣きわめくかもしれない。あるいは出奔してしまうかもしれない。あるいは仏門に入るかもしれない。あるいは書を捨てて町へ出てまだ陽が高いにも関わらず新宿のしょんべん横丁などの居酒屋に行くかもしれない。あるいは重い大うつ病性障害を発症し入院させられるかもしれない。あるいはヒモなしでバンジージャンプするかもしれない。
 何故って、自分が論じようとした事柄が全て、本当に全て、ことに羅生門などという研究者の間でのスーパーベストセラーの場合は針も通せないほど全てが既に書かれているからだ。
 印象批評めいた、誰でも思いつくような『羅生門』の解釈は既に膨大な数でもってして書かれている。近代的自我とかエゴイズムとか、そんなもの1000を超える。穿った見方を試してみる、それも書かれている。小説内の文章を文節に分けるなどして、徹底的に国語論的な文章構造を調べる、みたいな何がしたいんだという方法をとってみる、それも既に書かれている。ヤケクソで「文学理論」を強引に当てはめて新解釈を試してみる、主に作者の死、書いた人間には死んでもらって、テクスト論の立場から、様々な理論を応用する。残念、それも99%やられている。
 まだやるつもりがあるなら、もっと時間をかけ、何か、何でもいいから、まだ言われていない事、まだやられていないものを探す。
 そう、新しいものとは、《まだやられていないもの》、である。考えてみれば当たり前の話だが。当たり前がわかっていても、見つけられないから大いに悩む。

 

 小説創作の話へ戻る。
 こんなに苦労しても《まだやられていないもの》を見つけ出すのは容易ではない、というか根本的に不可能かもしれぬ。調べあげたって無理だ。国会図書館が所蔵するものを全て読むには人間の一生は短すぎる。
 完璧な《まだやられていないもの》は見つけられないので、《まだやられていないもの》っぽく見えるものを探す事になる。これもマジメにやったって報われない。頭で考えて狙ってやってみたものほど、全然新しくなかったりする。
 それじゃあ、どうすればいいかというと、何でもかんでも全てにおいて《天邪鬼》になってみるしかない。とりあえず、社会や世間が持つ文脈にあえて逆らってみる。常識を疑うんじゃなくて、非常識な事を考えたりやってみたりする。大勢が支持するなら反対し、大勢が反対するなら賛成する。常に常に、真逆の方向で考えるように脳みそ改革をする。要はギリギリの理性を保った上でのキジルシになろうという事。
 みんなと違う方をいつも向いてみよう、といった感じ。行進とかでね、みんな前へ進むのに自分だけムーンウォークで後方へ後ずさってみるとか。バカでしょう、ってなるけど絶対に目立つでしょう? 悪目立ちになるけど、目立ちはする。こんな事、誰もやらないから。こういうバカな事でもやり続けるといつしか評価してくれる人間が出てくる。評価される時がやってくる。
 このバカな程の天邪鬼が〈新しいもの〉の代替物になるかは、時の運だ。とにかくみんながあえて避けている事をあえてやってしまえば、〈新しいもの〉っぽい事も極稀に出来るだろう。
 脳みそ改革が出来上がったら、狙いなどつけずに書きたいように書いてみる。何故ならもうその脳みそは非道徳的にイカれているからだ。恐らくたいていのものは、何だこれはけしからん奴だ、と捨て去られる。人間の集合体が共有している何かに全て逆らっているので、全人類に喧嘩を売っているようなものになるからだ。
 だが100回喧嘩を売ってみると、1回目なのか10回目なのか99回目なのかは不明だが、奇跡的に「これは全く新しい小説だ。このような価値観、文学観、文章文体表現、構造は見たことがない!!」という現象が起こる。
 この奇跡的な現象は私の推測では毎年起こっている。新人賞受賞作決定という形で。

 

 犯罪になるような事だけは避けておいて、それ以外の全ての事象に対し《天邪鬼》でいるべし。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、のだが、その下手な鉄砲の種類は、主流のライフルではダメだ、一発も当たらない。コルトM16シリーズやカラシニコフなんて絶対にダメ。何故当たらないのかは私は知らないし、わからない。ただ、何度撃っても当たらないと経験したので私は主流のライフルを捨てた。
 そうしたら小さな文学賞をやっと貰った。
 明らかにおかしい、絶対に狂っているライフル。標準を合わせているのに弾が上下左右に飛んで行ったり、あるいは暴発して撃った人間が負傷するかもしれないような、クレイジーなライフルを手に入れるべきである。クレイジーな弾道で、外したかに見えても跳弾で的に当たるかもしれない。
 まぐれに賭けてひたすらに発射しつづける。発射する弾数は、日本人の場合は80~90発はあるはずだ。1年に1度撃つという計算をするなら。100発撃てる人だって、この頃はよくいる。
 私の手に入れたライフルは、かなりクレイジーな代物だがまだまだだ、もっと狂えるはず。もっともっと、値がつかない程の不良品のライフルを、私は今も探している途中である。 

___
 うーん、まだ考え方が甘い。これじゃただの博打論だ。やはりロシア・フォルマリズムを真剣に、追える範囲で追いたい。あれは再評価が始まっているがもっと評価してもよいと思っている。

 ウォーキング。
 今日はちゃんとウォーキングをやった。今日は前回とは反対の方へ歩いた。
 3.38km、3910歩。なぜ記録が下がったのか。坂が多かった、まるで中山競馬場のように。だからかな。20分20分の40分でやったのだが。雨が降ったらやらないので明日は休み、にするかも。
 ついにというかやっと、我が家の眼の前、あぜ道一本挟んだ田んぼに水が入った。前橋市のまあまあな住宅街なので意外と田んぼは少なかったりする。この我が家の前にある田んぼも今でこそ小学校の校庭くらいになってしまったが引っ越してきた当初は広大であった。お百姓さんの方で代替わりしたのかな、宅地転用されて10階くらいある中規模マンションがいくつか建ったし、建売もされて一軒家も何軒か新しく作られた。田んぼはどんどん狭くなっている。だけどカエルの数はあまり変わってない気がする。
 今もアマガエルが嬉しそうに鳴いている。これから雨予報だし尚の事、嬉しいんだろう。アマガエル達は我が家の庭から水が入った田んぼに引っ越したようだ。さかんに鳴いているがまだ十数匹という感じ。可愛らしい。
 しかしこれが繁殖期になると凄い。私の部屋はまさにあぜ道挟んだ一番田んぼに近い所にある、二階だが。遮るものが窓ガラスしかないので、数百匹はいそうなカエルの大合唱が安眠妨害をしてくる。一匹だけピョコンピョコンとやっているととてもかわいいんだけど、群れのようになっちゃうと少しイラッとくるものがある。田舎者の悩みだ。